昭和50年10月23日
御教話
人間の幸せに欠く事のできない身の上の事に難儀があり、いわゆる人事百般、または病気災難、さまざまな難儀なこと、幸せになる事に何なりとも願え、五穀豊穣、牛馬の事に至る迄実意をもって願えと仰せられます。
もう何を願ってもよい、ね、私共が心に難儀を感ずる事を、何事も痛いかゆいの事から心に難儀を感ずる事から、形のこと、金銭のこと、それは自分の家に飼ってある牛馬のこと、犬猫のことでも、願ってゆくという事です。ただし実意をもって願えというところに、釘がちゃんと打ってあるところに、私共が頂かして貰う事が信心でございます。
何でも頼まれる、何でも願えれる、けれども実意をもって願えとおっしゃるのですから。ですからその実意を追求する、実意にならせて貰う。
そういう精進をさせて頂きながら、自分の願いなら願いという事が、ことに対して自分で果たしてこの願いが、いわゆる我情我欲だけのための願いではなかろうか、と、実意をもって願われておるであろうか、そこのところを稽古をしてゆく。
信心とは、求道の信心とは、実意丁寧神信心、それがお道の信心の生命だと言われるゆえんでございます。ん
そこでなら実意とはどういうような事かと。
ある方が三代金光様の許にお参りして、金光様どういう信心をさせて頂いたらおかげを頂けましようか、と、お伺いさせて頂いた時に、金光様がおっしゃられたこと、「それは実意になったら結構です」と、それは実意になったら結構ですと。
ところが実意という事がなかなか難かしい、ね、そこでなお重ねて、「金光様実意とはどういう信心でございましょうか」と、お伺いさせて頂いたら、「わがままと横着をせねば結構です」とおっしゃったそうです。
私共の心から引くこと、わがまま、引くこと横着、イクオール実意という事になるというのです。私共の心から、わがままな心、横着な心、いわゆる実意でない心を、私共の心から取り除かせて頂いたら後は実意になると仰せられたという事でございます。
だから金光様の御信心はどうでもこの実意丁寧神信心をさせて頂き、しかもその信心の眼目というものが、いよいよ本当なところへその目指すところ、そこを教導を受けて行くのでございます。
今日私は御祈念の時に、皆さんにおかげを頂いて貰わなければならない、それには本当にいよいよ末広がりのもと、親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代、日勝り月勝りのおかげを頂いて貰うために、皆さんに信心をして貰う、話を聞いて貰う、そしてその気を皆さんの生活の上に現わして貰う、そこから神様の願いであると同時に、私共の願いが成就してくるという事でございますから、そういう信心を願わして頂いとりましたら、おなかの大きい、いわゆる妊産婦です、椅子に腰掛けているのです。こう(ポーズを見せて)、その前に白扇が一本置いてあるのです。おなかが大きいので取れんのです。そういうところを頂いた。
私共は信心によってです、いうならば運命を日々打開して行くのです。新しいよりよい運命を開いて行くのが信心です。もうこれは私の運命だ、と決めずに、信心はそれを切り開いてゆくのが信心です。いうならば、若くして死んで行かなければならない人が、心の状態を変えてゆく広げて行く事になって永生きのおかげを頂くように、もう貧乏で一生を終らなければならないのが、おかげで億万長者になれる、というような、私は信心とはそういうもんだと思うです。
だから日々が運命を、より有り難い方え、より繁盛の方へ広げて行くといういき方、そこでです、そこに白扇が置いてある事はいうならば末広になる、日勝り月勝り年勝りのおかげを受けられる、という私はおかげのしるしだと思うです。それをおなかが大きうして腰掛けておりますから、こうしてそれが取れないでおるというところ。
私は以前ここで修行する方達に、修行させてくれという、打込んで修行しなさい、けれども腰掛けではいやだよ、と。私の信心をいうならばマスターする、私の信心をいわば分かって、それをまた踏み台として、また新な信心をそこから栄えていくというか、繁盛していくようなおかげを頂くための踏み台には喜んでならせて頂こうけれども、腰掛にでは私はいやだと言う。ね、合楽教会を腰掛けにするような事なら私は嫌だと。私は今日おしらせ頂いたのはその事だと思うです。信心がです腰掛け信心ではだめです。
腰掛けの信心、いうなら、死んだらよかたい、また買おうたい、ちゅうこと言いますね。合楽でおかげ頂かれんならどこそこがある、何々様もござる、おかげを頂くなら合楽に参ろう、まあおかげを頂いた。やはり腰掛けでもやはり、おかげも下さるのです、実意をもって願えとおっしゃる、けれども実意はなくともおかげは受けるです。だからそれに甘えるという事が私は腰掛ける事、おかげに腰掛ける事だと思うです。
改まらんでも、研かんでも、実意にならなくってもおかげは頂くから、といったような信心はです、いわゆるそのおかげに腰を掛けた信心ですから、本当の意味においての、そこの目の前にある白扇を取って開くという事にはならないのです。
ね、皆さんひとつ考えてみて下さい。私の信心はおかげさえ、頂けばよい。まあお参りすりゃ、おかげを頂くから、と、おかげに腰掛けた信心ではです、日勝り月勝りというような神様の願いであるところのおかげにはとうてい届かない。ね。どうぞおかげに腰掛けずに、私はいうならば大地に根を降ろしたような信心。いうならば、この畳にどん坐った信心、ね、どん坐るところにです、そこにある扇子が取れるのです。皆さん心をね、そこのところにね、どん坐った信心をね、ひとつさせて頂かなければいけんのです。
今日夕食の時に、今日朝ある方がお肉のお供えをなさった。焼肉の肉ですから、という事であったから、鉄板焼きの道具のお供えを頂いておりましたから、鉄板焼き、焼肉で今日は夕食をさせて頂いた。もう柔かで美味しうて、それに伴うておる野菜がいろいろ素晴らしいものが取り揃えてございましたので大変美味しかった。
そこで私は男の先生方が七人おりますから、若先生をはじめ七人の男の方達ばっかり、茶の間によんで、そこで卓を囲んで、その肉を食べてもらいました。今日月次祭じゃなかなら、本当にビールの一本あても出したいところなんだけれども、まあ今日はひとつ七人でビール二本で我慢して貰おうと、久富先生が一本飲み残してあったお酒がありましたから、そのお酒と、二本のおビールを七人でいわば頂いた。そしてその美味しい肉を頂いたわけでございますけれども、ビールによって肉の味が生きるという事なんです。一杯のビールによってです、この肉がより美味しいものになる、という事です。
酔うために、呑むために肴があるのではない。その肴の味を生かすために今日はビールを二本出さして頂いたんです。
お互いの信心もね、そういう信心にならせて頂いたら有り難いです。信心の味わい、信心の歓びを頂きたいために信心があるのです。おかげを頂くために信心をするのではない、神様を生かす、信心を生かす、信心しとるからおかげを頂くという事はです、ただ自分だけが生きとるだけです。おかげを頂く、おかげを頂くというとるけどそれは、あなただけが思うようになっとるだけです。神様の思う通りにはなりよらん、ね、ただマイホーム的なおかげを頂くために終始してはならない。
その肉を生かす事のためにビールを頂くのでなければいけません。自分の頂いとる信心を生かし、それはそのまま神様を生かすという事です。みなさんそこを思うて貰わにゃいけん。自分の信心が神様から喜んで頂ける、神様を生かす働きになっておるかどうかという事です。
昨日久留米の稲垣さんが、朝の御祈念にお参りになって、また午後にお参りになった。宮崎におられる妹さんが、大変な喘息で、大変ひどいという事でございました。そこで合楽にお参りしてお神酒さんを頂いてそしてこのお神酒を持って、宮崎に妹のところに、そのお神酒さんを頂かせたいと思いますからというて、そういうお届けがあった。
私はその事を神様にお届けさして頂いたら、さんずいに去ると頂いた。書いてみてごらんなさい。法律の法という字になります。法則の法になります。それで私は「稲垣さん、その宮崎までも、たったこれだけのお神酒を持って行く、その気持ちで信心をなさい、その気持ちで妹さんの事を祈りなさい、必ずおかげになる」と私が申しました。それで昨日から昼の御祈念に、ならこれは妹のためにという信心がなされました。
お神酒さんを頂かせる。ああ合楽のお神酒さんはあらたかだ。本当にあらたかです、事実。本当に今まで痛かったつがもう、頂いたとたんにおかげを頂くというように、霊験あらたかです。それではね、お神酒さんがきいた事になるのです。
私共はまさかの折には、御神米を頂かにゃおられん。まさかの場合には、御神水もお神酒も頂かにゃおられん。けれども、その御神水さんの御威徳、御神酒さんの御威徳だけ、ああ御神酒さんはあらたかと分かっただけではいけんです。
信心させて頂くということ。そのせっぱつまった、お神酒さんを宮崎まで持って行こうというその願いを、思いを神様にむけてあなたが信心をなさればおかげになるという事。さんずいという事は自然ということ。去るということは、その苦難も病気も去るということ。
これは法律の法であり、法則の法でありますから、天地にはそういう人間氏子が真心を、一心を立てて神様にすがる時にです、天地はそういう働きをなさらなければならない一つのシステムがあるのです。天地に法があるのです。その法にかなった信心をさせて貰わなければいけんのです。今日私がみなさんに聞いて頂いとるのはね、法にかなった信心をせよということです。
いかに実意丁寧がです、天地の心をそのままに、私どもが天地の心を心とするのが実意丁寧神信心です。それをその頂いておるみ教えからいうならば、天地日月の心になること肝要なり、ということです。
法に従い法によって私どもが助かっていく助かり方がです、私はいよいよ身に徳を頂いていくことであり、それが白扇を頂くことであり、日勝り月勝り年勝り代勝りにおかげを頂いていくというのが、その白扇を握らなければだめだということでございます。その白扇を頂くためにはね、腰掛けの信心ではだめだということです。
合楽にお参りしておかげ頂かん時には、また〇〇教会もあるし、〇〇様もござるから、それこそ死んだらよかたいまた買おうたい、じゃなくて、どうでもあなた一筋というものが信心にはなからなければいけないということです。
しかもそれはです、おかげを頂くからではなく、そのおかげに腰掛けることではなくて、どん座った田信心からです、いわば目の前にある白扇を受けることができる。それをじょじょに開いていくことができるのである。そういう信心をで、お互いが目指さなければならない。
今日私がおしらせを頂いたのは、いわゆる腰掛けの信心ではいけないということ。神を神として立て通された教祖様の信心を神習わせて頂いてです、神様が喜んでくださる、神様が助かってくださるというおかげでならねばいけないということです。
そこに私共が、実意丁寧というか、実意丁寧という事を砕いて自分の心に頂いてみるとです、実意じゃない事に驚きます。自分勝手な事ばかり、わがままな事ばかり、自分の我情我欲を満たそうとする事のための、信心である事に改めて気付かせて頂きます。そこから改まった信心が生まれてくる、やはり気付かなければいけません。
そして私は熱心な信心をしておると思うとったけれども、腰掛けの信心であった事に気付かせて頂いて、いうなら大地に根を降ろしたいうならば信心、いうならば真の信心、どん座った信心、そのどん座った信心ですから、例えばこれがおかげであり、これがおかげでないという事は絶対あり得ない。
こんどのおかげの泉(第七十四号)の校正がきとりましたから読ませて頂きましたが、その事ばかりを説いてある。
神のおかげを知らぬから互い違いになるのじゃと仰せられるが、神のおかげを知るということが、願うた事がかのうた事だけがおかげではないし、願うた事が相反することが深い深い御神虜であると悟らして頂くときに、初めておかげがわかるのである。おかげがわかれば必ず、繁盛のおかげに繋がると教えて下さるのですから、ね、その深い御神虜を事々によって悟らして貰う信心。
私が今日修行生の方達にです、あんまり美味しいお肉ですから、これにおビールを添えたらもっと美味しい事になろうと思うて、たったコップー、二杯ずつであるけれどもです、そのお肉の美味しさを倍加する、お肉の値打ちをいよいよ分からせて貰う、美味しさを分からせて貰うのに、皆さんにおビールをあげたように私共の信心もです、神様を現わすことのための修行でなければいけんのです。
合楽示現活動に参画するという事はです、もうとりも直さず、神様の願いを受けて、そして神様の願いに応え奉るというのが合楽示現活動であります。
この合楽示現活動という事が、合楽という事が、頭にありますから、これがなかなか一般の人に分かってもらえない。
この頃から熊本からみえた壮年教師の方達が、第一番にこの合楽示現活動ちゃどういう事ですかと、いう事が第一の質問でした。
それで皆さんがいつも聞いておられるように、合楽とは常持(バス停、地区名)の先である、喜びを、信心を頂いて喜びを常に持っておる、その喜びを合楽に現わすということ。いうならば神様と氏子が楽をしあう喜び合うという事。そういう事のために挺進する事の運動に参画さして頂く、あずからして頂くのが合楽示現活動だというふうに説かせて頂くと、分るとは分るようですが、合楽という事がどうも気にくわんらしい。合楽の者は合楽の宣伝ばかりするという事になるのです。だからこれは、この事を頂いて以来、何か外に合楽という以外に替わった表現はないだろうか、と、私はいつも思うておりました。
そしたら昨日金光大神覚の中にある金光様のお言葉の中に、「この方の信心は、信ずる心というのではなくて、又は普通で言う神信心でなくて、この方の信心は神人じゃ」と言うておられるところがあります。この方の信心は神人じゃと、神人と書いて神人と読むのです。
私はそれを発見した時にですね、これならば誰れでも合点がいくじゃろうと思った。
この方の信心はね氏子だけでできる事じゃない、神と氏子が仲良うして、そこからよいものを生みなしていこうというのがお道の信心じゃと、いうならあいよかけよで立ち行く道なのだ、と。
お道の信心は神人と書くと、だから神人示現活動に参画するという事になればです、合
楽を使わんで済むから皆にも合点してもらえるんじゃなからうかと思うんですけど、今日
皆さんに聞いて頂いたのは、その神人という事を聞いて頂いたのです。
ね、神人、私だけが助かるというのは、腰掛けの信心でも良いですけれども、神様が助かって下さるためには、私共が本気でどん座った信心、腰掛けの信心からそこに座り直した信心、ね、神様から喜んで頂く信心をいよいよ身につける、それを一言で言うと実意をもって願う信心をさして貰う、そこで実意とはと追求してまいりますと、結局天地日月の心になる事が肝要という事になってくるのでございます。
信心の目指しを、そういう間違いのないところへ置いて、せっかく信心をさせて頂くのでございますから、そこに焦点を置いての信心をして頂きたいと思います。そしていよいよ白扇が肝心要のところが間違っていなければ、広がりに広がっていくところの、親の代よりも子の代、日勝り月勝り代勝りのおかげを頂きたいものでございます。どうぞ。
(昭和五十年十月二十三日月次祭における御教話より)